銀座のレンガ街
文明開化していることを欧米に示すために、明治政府は銀座周辺の建物を洋風化し、都市を飾ることに熱く心を打ち込んでいたのですが、1872年に銀座一帯に大火災が発生し、街全体が焼失してしまい、東京復興計画を立て、手始めにレンガ街として再建することにしました。
この計画は、画期的な都市計画でして、当時ようやく製造が始まったばかりのレンガで、2階建て洋館を長屋風につくり、道路も拡げました。
この計画の設計者はトーマス・ウォートルスで、レンガ工場の建造も指導していました。
レンガは道路の舗装にも使用され、当時の銀座通りは27メートルに広げられ、日本で初めての歩道を設け、車道と歩道の境に街路樹を植えましたが、銀座の象徴である柳ではなく、末や梅などで待ちに色を飾りました。
今では当たり前の電灯が日本で初めて点灯されたのは、明治15年の銀座でして、文明開化の光が差し込み、この銀座の商店街は、これまでのように大工が一棟ずつ商店の建築を請け負って、好き勝手に建造することは出来なくなりました。
レンガ造の銀座通りは東京全市を不燃化する都市計画の一環でしたが、財政上の理由で中止となり、住民も慣れないレンガ造の建物に住むことを好まなかったので、土蔵造りも認められ裏通りなど鹿鳴館までレンガ造というわけにはいきませんでした。
鹿鳴館
明治以降から街並みは近代化してきましたが、外務大臣の職にあった井上馨は、安政の不平等条約の改正に思い悩んでいて、改正交渉を有利に進めるために、生活文化の西洋化政策を企て、来訪する外国貴賓の接待や、外交官と日本の上流階級の人たちとの社交場をつくることを考え、鹿鳴館が建てられ、J・コンドルの設計で1883年に完成し、開館したレンガ造の鹿鳴館では、毎夜のように賑やかな宴会が開催され、服装や生活習慣も自然的に西洋化していき、安政の不平等条約の改正に大きく役立ちました。
今では、レンガ造りの建物というとクラシックなイメージかもしれませんが、建てられた当時は文明開化の香り高い建物の典型的なものでした。
J・コンドルは博士であり、工部大学校で建築学を教える合間に、多くの日本文化を研究し、なかでも日本画については、川鍋暁斎の教えを受け、展覧会にも入選したほどの腕前です。